KBCコラム

非認知能力

非認知能力とは?

2024/08/21

キッズベースキャンプでは、「社会につながる人間力=非認知能力」の育成に力を入れています。小学生という多感な時期に、いろいろな体験活動を行い、様々な人と出会い触れ合うことで子どもたちが将来生きたい人生を切り開いていくための土台となる力を身につけてほしいと願っています。

小学校の学習指導要領でも明記されるようになり、「非認知能力」や「生きる力」などの言葉を耳にする機会も増えてきました。

では具体的に「非認知能力」とはどのような力なのでしょうか?

今回のコラムでは非認知能力の育成について研究する岡山大学の中山芳一 准教授にインタビューしてまいりました。


―――はじめに「非認知能力」とはどういったものか、あらためて教えてください。

中山:認知能力は数値で測れる能力、分かりやすくいえば、「これは何点だ」など、点数のように分かりやすい数値にできる力のことです。認知能力の代表的なものは学力ですが、そういった認知能力ではない力のことを、「あらず」を付けて非認知能力と呼んでいます。具体的には、今まで心とか人間力といわれてきたような、いわゆる人間性、内面的なもの、もしくは他者との関わりなどの社会的なスキルなど、「これからも伸ばしていくことができる」能力として位置付け、総称したものをいいます。

 

―――日常生活における認知能力と非認知能力の具体例はどんなものがありますか。

中山:例えば計算の問題が10問あったとします。この10問をどれだけ間違いなく、そしてどれだけ早く答えられるのか、というのが認知能力です。間違いと正解の数ははっきりと数値にできるし、それに対してどれくらいの時間がかかったかも、はっきりと数値化できますよね。当然、そこに順位もつけられるのが認知能力です。

非認知能力は、その算数の問題に対しての「やる気」や、ちょっと難しい問題が途中にあったとしても、あきらめずに挑戦する能力。また算数の問題とは別の話ですが、友達と一緒に何かに取り組んでいるときに、友達と教え合ったり、励まし合ったりするような、コミュニケーション力なども、非認知能力側にあるものです。

 

―――ではその非認知能力は、どうすれば高められるのでしょうか。

中山:非認知能力は、数値化して目に見える力ではないため、高めるのが難しい能力だといえます。学力のような認知能力は、こうすれば計算が早くなるとか、たくさん漢字を覚えられる、といったように、能力の高め方が明確になっていますが、非認知能力は、数値化して目に見える力ではない分、高める・伸ばす方法が明確ではありません。

人間は、いろいろな気質を持って生まれてきて、成長するにつれてそれが性格のようなものになっていきます。我々は個々が持つそういった気質をもとに、自分や他者についてタイプ分けしますよね。例えば外交的なタイプだから、いろいろな人と臆さずやりとりができる、とか。逆にちょっと内向的なタイプであまり人とのやりとりは得意じゃないけれど、きめ細やかな作業は集中してできるなど。成長の初期段階ではそんなふうに、それぞれが持っているタイプ、性格のようなものとして非認知能力が発揮されていきます。その気質や性格で発揮されていたものが、小学生の中学年から高学年頃になると、自分が意識することで変えることができるようになります。例えば、自分でもうちょっと我慢強くなろうと意識して、その意識をしっかり持ち続けられると、我慢強さが身に付いてきます。我慢強さ、すなわち忍耐力という非認知能力に位置付けられる力を意識することで、高め、伸ばしていくということができるようになっていくんですね。

 

―――つまり非認知能力は、教えてもらう力ではなく、自分で身に付けていく力ということでしょうか。

中山:そうです。だから、周囲の大人には何ができるかというと、きっかけをつくることなんですよ。きっかけを作ることはできますが、こうすればいいとか、こうしなさいと教えてあげられるものではありません。

いわゆる良いところを伸ばすためには、「それってすごく素敵だよ」と伝えてあげることで、「そうか、私はもっとそれを伸ばしていこう」と意識するわけですが、そんなふうに褒めたり注意したり、あるいは何か教えてあげるというのも、あくまでもきっかけの一つなんですよね。

必ず教えた通りにこうしなさいというのではなくて、例えばカッと腹が立ったとき、「一度大きく深呼吸してみたらどう?」と投げかける。それを本人がそうだな、それやってみるかと受け止めてくれれば、それでよし。こういったものをあくまでもきっかけとして周囲の大人が提供していくこともできますし、「活動」というきっかけを与えることもできます。教える、伝える、褒める、注意するなどは全て、我々が直接その子にやっていること。そうではなくて、我々が直接伝えなくても、何らかの活動を通して子どもが自ら気付づき、学んでいくことができます。

僕はアラフィフ世代ですが、僕らの世代の子どもの頃は、「放課後」という時間、空間があって、そこで仲間と共にいわゆる自由な時間、自分たちがやりたいことをやっていました。その中で、友だちとのコミュニケーションや遊び方の工夫などを通して、何かに気付いたり学んだり、そこから何かに意識を向けていくようなことが自然にできていました。でも今はそれがちょっと難しくなってきていますよね。

時間・空間・仲間というそれぞれの単語の最後の「間(ま)」をとって、三間(サンマ)と呼びますが、1990年代には、すでにこの三間が失われたといわれるようになりました。この頃から、放課後の自由な遊びの時間や場所がなくなってきたんですね。公園でボール遊びができないから遊ぶ場所もない、勉強が押し寄せてくるから遊ぶ時間もない、友だちも約束をしなければ遊べなくなってきてしまった。僕らの頃は、外に出れば当たり前のように、いつもの空き地に友だちがいたのに、その状況が今はない。大人が介入せずに子どもたちだけでつくっていた世界がどんどん失われてしまったんです。

子どもたちだけの空き地の世界って、実はいろいろな文化が継承されていたと思うんです。こういう遊びがあるとか、上級生が下級生を世話しなきゃとか、それらは大人から教えられなくても、空き地の世界の中で学び、自然と身に付けていくことでしたが、今はなくなってしまった。

誤解を恐れずにいえば、だから大人が介入せざるを得なくなったわけです。2000年以降、失われた三間を何とか回復させていきたい。けれど、子どもの自治の世界が失われて久しいので、三間を与えるだけでなく、そこに大人からの手間も加える必要があります。そこで、どういう放課後の場が子どもたちにとって豊かな時間・空間・仲間になるだろうか、ということをやりはじめて、今に至っています。
 

―――それも、大人が子どもに与えられるきっかけの一つということですね。

中山:そうですね。だけど、それがきっかけになっているのか押し付けになっているのかは分からないです。手間って、確かに聞こえはいいじゃないですか。与え続けてしまうこともできますよね。でもそれで何が生まれるかというと、子どもが自分では何にも考えられなくなってしまう。大人からの手間を与えられっぱなしになると、用意されたものに興じるだけになってしまうのです。

子どもたち自身がもっと楽しみたいと工夫をこらしていた遊びの時間を「そんな遊びはいらない」とか、「遊んでいる時間がもったいないからそれよりもっと勉強しなさい」と、遊びの時間を勉強の時間にすり替えてしまう。こうなったらもはや手間ではなく、邪魔です。子どもたちの余暇や遊びの権利は、子どもの権利条約 第31条にも定められています。にもかかわらず、遊びよりも勉強の方に価値があるなんていうのは大人の勝手な偏見であって、もう邪魔でしかありません。
 

 

―――これからの時代を生きる子どもたちにとって必要な力とは?

中山:近年、数値で測定できる認知能力と測定できない非認知能力という分け方は主流になりつつあります。この分け方でいうなら、人間はどちらの能力も持っているといえるでしょう。では、今後活用が期待されているAIはどちらなのかといえば、明らかに認知能力が突出している存在です。なぜかというと、AIとは情報だから。多くの情報を持ち、それを正確に早く分析・解析して、そこから必要な情報を提供してくれる。今話題の生成AIがその最たるものです。

先ほどの算数のプリントの問題がまさにそうですよね。どれだけたくさんの情報を、どれだけ早く正確に解けるか。AIは認知能力、数値で評価できるものに特化した、いうなればモンスター、化け物です。しかもただできるというだけじゃなくて、24時間365日フル稼働してくれるのがAIで、人間はもう全然足元にも及ばない。でも人間がそこに対抗する必要なんて全くありません。AIに仕事が奪われるなんて意見がありますが、AIと人間ってそもそも戦う相手ではなく、我々を助けてくれる存在がAIなわけです。となると今後我々は、AIが助けてくれやすい何かを伸ばしていく必要があります。
そうなった時、もちろん認知能力も大事なのですが、AIが持ち合わせてない非認知能力がやっぱり必要ですよね。

そもそもAIがなぜ非認知能力を持っていないかというと、AIは感情を持ってないからです。非認知能力というのは脳の前頭前野という、おでこのすぐ後ろ側にあるところが司っていますが、ここは感情や思考を司る場所でもあります。つまり、感情や思考と共存しているのが非認知能力で、感情と非認知能力というのは切っても切り離せない関係にあるということなんですね。今の時点では、AIは非認知能力を持ち合わせていませんが、人間は持ち合わせています。だから人に対して、例えば共感したり、思いやる、おもんばかることができるし、我慢することもできます。
また、意欲もあります。「人間はゴールや目的地を設定できる。AIはゴールを設定できないけれど、ルートを設計できる」とよくいわれますが、人間はなぜゴールを設定できるのかというと、意欲があるからです。誰かを幸せにしたいとか、この街のために何かをしたいとか。もっと日常的なことでいうと、今日のお昼ご飯にラーメンを食べたいとか。そこで、近くにおいしいラーメン屋があるかなと検索するときに助けてくれるのがAIです。人間とAIは、そういう関係性なんですよ。だから、AIと我々はタッグを組んで、認知能力と非認知能力をお互いフルに発揮し合いながら、より豊かな社会をつくっていくことができるんじゃないかと思います。
 

 

―――その意欲を高める方法というのはあるのでしょうか。

中山:人間はもともと、ものすごく意欲を持って生まれてきているんですよ。だけどその意欲を削いでしまう、低下させてしまういくつかの要因が残念ながらあるように思います。
一つは、子どもが成長していくにつれて現実の壁とぶつかり、そこで起こる葛藤から、できることとできないことが分かってしまう、というのがあります。ここで気を付けなければいけないのは、子どもが壁にぶつかる以前に、お子さんの意欲を低下させてしまう親の存在。小さい子どもが何かを決めようとしていたり、どちらにしようか悩んでいるとき、子どもは「自分で決めたい」という意欲を持っています。意欲を持って悩んでいるのに、親御さんがやってきて、こっちにしなさいと決めてしまうパターン、よくありますよね。これはどういうことかというと、「あなたは決めなくていいよ」「決めようとする意欲を持たなくていいよ」というメッセージになってしまいます。

もちろん忙しい時に、「こっちにして」とかいうのはいいですよ。だけどそれがしょっちゅう続いて常態化してしまうと、常にそのメッセージが伝わってしまうことになり、子どもからすると「もう決めなくていいんだ」となってしまうんです。だからこれは、親御さんには大いに気を付けていただきたいことですね。

そしてもう一つ、その意欲に大いに連動してくるのが「楽しむ」ということ。これは最近話題のウェルビーイングとも関わることですが、大人はもちろん、子どもはいうまでもありませんが、楽しむ時間、いろいろなことを忘れて、その“楽しいということ”に没頭できる時間、そういう機会がどれだけあるかは、とても重要なことだと思います。そうなると、やっぱり遊びというのは欠かせない要素なわけです。
人は遊ぶことでいろいろなことに気付き、学ぶことができますが、かといってそういうことを学ばせたいから、遊ばせているというわけではありません。遊びというのはあくまでも、本人が楽しいから遊ぶ、その結果としてさまざまなことを学ぶことができる。“楽しいということ”がどういうことなのかを、子どもも大人も、遊びを通して実感できます。「楽しいってこういうことなんだよ」といくら言葉で説明されても分からないですよね。
でも子どもの頃、午後3時頃から友だちと遊んでいて、気が付いたらもう日が暮れ始めていたという経験ってありませんか。家に帰って時計を見たらもう夜7時前だったりとか。あの3〜4時間、時間を忘れるほど没頭してしまう遊びの楽しさは、体験してみなければ分からないと思います。
そういう楽しい遊びの時間が結局、非認知能力につながっていたり、AIとタッグを組めるというところにつながっていたりするのだということを、ぜひ皆さんにお伝えしたいですね。

中山芳一 准教授

岡山大学准教授、専門は教育方法学。
日本放課後学会代表理事、岡山県子ども子育て会議会長、
日本放課後児童指導員協会副理事長、子ども學びデザイン研究所所長、
20代のときに学童保育指導員を9年間従事した後に、学童保育や放課後の研究を進めてきた。
「学童保育実践入門(2012年)」「新しい時代の学童保育実践(2017年)」「学力テストで測れない非認知能力が子どもを伸ばす(2018年)」など著書多数。

(2024年8月現在)